甲斐駒ヶ岳(2967m) 
山行期間 平成12年8月7日〜9日テント泊
8月8日(火) 白須上バス停(1:20)一尾白川渓谷キャンプ場尾白川渓谷(1:30一)ザレ場(0:30一)粥餅石(0:30一)笹の平(1:00一)刃渡り(0:40一)刀利天狗(0:50一)五合目小屋(1:30一)七丈小屋(1:00一)八合目御来迎場

8月9日(水) 八合目御来迎場(1:30一)甲斐駒ヶ岳(1:00一)駒津峰(1:30一)仙水峠(1:00一)北沢峠
( )内は参考コースタイム
   以前、川本さんだったと思うが、黒戸尾根からの甲斐駒ヶ岳に登りたいというのを聞いたことがある。私の夏休み山行は、昨年北アルプスを歩いたので、今年は南を歩こうと考えていた。山渓のアルペンガイドによると、甲斐駒ヶ岳への登山で黒戸尾根からのコースはアプローチの長さ、登りの急峻さから敬遠されていた。しかし南アルプス林道にバスが入り、北沢峠で前日1泊し仙水峠を通るコースをとれば、その日の内に山頂に登り帰れるようになった。これに対し黒戸尾根コースは表口登山口として最も古くから登られており、長く急な樹林帯と、梯子やクサリ場を乗り越えて岩稜を辿る道は最も南アルプス的といわれる。また、登山口から頂上までの標高差が2200mと国内の山では富士山を除いて、もっとも高低差が大きく、黒戸尾根を登ることはまさに南アルプス登山の心髄に触れることでもある、と書かれている。(ちなみに富士山の登山口は何カ所かあるが、一般的には5合目からで、この標高は2000mを越えている。このことを考えると黒戸尾根からの甲斐駒は日本最大の標高差と言えよう)。このような記述を読み、甲斐駒に登るのであれば黒戸尾根からと決め込んでいた。また夏休み中であり、縦走を考え、甲斐駒ヶ岳〜仙丈岳〜北岳〜間ノ岳〜農鳥岳のルートを計画し、女房には4日か5日で帰ると言い、家を出た。

  しかしいくつかの誤算が加わり、結局甲斐駒だけの山行となってしまった。第一の誤算は、予定では多賀駅から朝一番の特急に乗り、日暮里そして新宿から中央本線と乗り継ぎ、韮崎からバスに乗り換える。10時48分にバスを降り、そこから歩いて20分で登山口の尾白川渓谷と考えていた。しかし私のミスで新宿から乗る特急が、本来乗るべき列車より1列車遅れてしまった。韮崎駅発で今回の目的地方面のバスは1日に5本しかなく、これで予定のバスに乗れず3時間以上も後のバスとなった。またバスを降りてから、遅れを取り戻そう、今日中に少しでも先へ進もうと考えつつ歩いたが、この間に雷鳴と共に小雨が降り出した。登山口まで20分と考えていたが、バス停の名称が変更されていたことも重なり、1時間もかかってしまい、登山口に着いたのが午後3時であった。このまま先へ進むべきか、そうなると途中で野営となる。ここは迷ったが無理をせず天気を考え、登山口にある尾白川キャンプ場でキャンプをすることにした。

 翌8日6時40分キャンプ場発。駒ヶ岳神社脇を通り、吊り橋を渡り、すぐに急登となった。周りは落葉高木樹林帯で真夏の太陽の光を木々が遮るが、それでも汗がどっと噴き出してくる。急登の連続でたちまちTシャツが汗でグシヤグシヤとなり、体に張り付いてくる。太陽を遮る木々がなければどうなるのだろう。1時間ほど歩き休憩していると、先の方で異様な声が聞こえてきた。そういえば歩き始めてすぐにも遠くの方で聞こえたあの声だ。何だろう、カモシカでも鳴いているのだろうか、と気に留めつつ歩いていると、3人の親子連れにあった。両親は40代半ば、子供は高校生ぐらいであろう。母親は道にベタンと座り込んでいる子供の、汗で濡れたシャツを取り替えようとしている。彼に、どう疲れた、と声を掛けると、サッと顔を背けてしまい、言葉にならない声を発するだけだ。母親に暑いですねと言うと、彼女には聞こえないようで、何か不明瞭な言葉を発していた。その先に父親が座り込んでいる。彼の顔を見ると、彼は耳に指を差し、それから口の前で手を振った。私はすぐ納得した。彼はボールペンで手の平に、ザレ場まで後どのくらいですか、と書き私に見せた。少し考え、あと30分くらいと私も手の平に書いた。その後水は大丈夫ですか、と書いた。彼は嬉しそうに大丈夫と書いてきた。彼らは今日は5合目小屋まで行くという。そこまでコースタイムではあと4時間。今は朝の7時30分だが、健常者と比べると大変なハンディを背負っている彼らの足どりを考えると大丈夫だろうか。一緒に5合目小屋まで行こうか、しかし私の日程も1日遅れている、と迷ったが結局彼らと別れ先を急ぐことにした。

  少し進むと道は二手に分かれて、直進する道にはまるで通行不可というように、倒木で半分がふさがれていた。地図上で登山道はこの直進する道なのである。彼らは迷わずに来られるだろうか、と気に留めつつ歩きながらも、すぐ小さなザレ場に着いた。先ほど父親がザレ場まであとどのくらいと聞いてきた場所だ。彼らはあの分岐まで来ているだろうか。あの分岐を間違わずに来られるだろうか。リュックを置き登山道を先ほどの分岐まで戻った。彼らはまだ来ていなかったが少し待つと3人の姿が見えた。彼らとザレ場まで歩き、ここから再度先を急ぐことにし、彼らと別れた。ザレ場から30分、粥餅石といわれる所に着いた。ここは大きな石が二つ並び、この石の上や周囲には沢山の石碑が置かれていた。
ここには水場があり、ほんの少しずつだが冷たい水が流れていた。ここで休憩したが、どうも3人組が気になり長い休憩になっていた。このあと彼らと三たび会い、そして別れた。

 登山道は急登の連続で、小休止のたびにTシャツを脱ぎ、絞ると汗がボタボタと落ちてくる。辺りを見回すとブナやミズナラなどの落葉樹林帯から、ツガの針葉樹林帯に変わっていた。行き交う人もいない静かな登山道である。こういう大自然の中にどっぷり浸かっている今の自分は至福のひとときを過ごしているなと感じるのである。木々の間からときおり見える空は、青空に入道雲の真夏の空だが、歩きを止め休憩していると樹林帯の中は涼しく、また小鳥の鳴き声がなんともいい。

登山道は岩場の両側がスッパリ切れ落ち、ナイフエッジになっている刃渡り、小さな祠と沢山の石碑が建っている刀利天狗を通り過ぎた。しばらくしてツガの樹林帯の中からひょっこりと5合目小屋が現れた。この小屋は無人小屋になっていた。重い木の扉を開け、中を覗いてみると、小屋の中は採光できる窓がなく、真っ暗だった。先ほどの親子はここが無人小屋であることを知っているのだろうか。食料は、寝具は、そしてあの子供がこのくらい小屋の中を不安がらないだろうか、などと心配した。5合目小屋を少し過ぎ屏風岩と言われる所へ着いた。前方には垂直に近い長い梯子がある。この梯子にとりつく前に少し休もうと腰を下ろした。ふと見上げると頭上には沢山の石碑。高さはさほどではないが、垂直のゴツゴツした岩場に所狭しと石碑が置かれている。これを見上げていると、ここで地震でも起きたら頭上の石碑に直撃されるとか、私は信仰心が薄いので、神様が怒って崩れるのでは、などといらぬ心配をしてしまう。ここからすぐ梯子の連続。垂直に近い梯子もある。

  しばらくして七丈小屋に着いた。小屋脇にはホースで山からの水が豊富に引き込まれ、ここで水を補給し、汗びっしょりのTシャツを脱ぎ、この水でシャツの汗を洗い流した。再び身につけたTシャツのひんやりとした感触が心地よかった。この後小屋の少し先にあるキャンプ場を通り抜けると、ほどなく道は森林限界を過ぎ、ハイマツ帯で足元は花崗岩の風化した砂地となった。この頃になると周囲をガスが覆い、遠くに雷鳴が聞こえはじめた。まずい、昨日と同じ気象状況だ。
しばらくすると前方に大きな石の鳥居、展望の大きく開けた八合目御来迎場に着いた。時間は1時13分。ガスが濃くなり周囲が見えなくなった。これから下山する一人の登山者が、これから甲斐駒に登るのですか、上は雷で危ないですよと言う。ガイドブックによると、この鳥居越しに甲斐駒の山頂が見えるはずだが、今は全く見ることができない。雨が降り始めたため、鳥居横の狭いスペースに急遽テントを設営した。時間が早いため、今後の日程を考えると少しでも先に進みたい。山頂までは1時間半だが、崩落の進んだ花崗岩でできている。こういう場所は登山道は不明瞭であろうし、このガスでは周囲を確認できるだろうか。また時間を考えると恐らく山頂にはもう人はいないだろう。危険は冒したくない。雨はすぐに止んだ。しかしいつまた降り出すか、そういう空模様だった。

 鳥居の周りには、ここにも石碑や石鉾、そして大小の岩がゴロゴロしている。その岩の間をチョロチョロ動き回る小動物がいた。オコジョだ。写真で何度か見たことはあるが、本物は初めて見た。なんとも可愛らしい動物だ。全体がうす茶色で、腹のほうが白い毛で被われていた。
 
 雨はすぐ止んだが、ガスが凄い。3時過ぎ、今日の行動を断念しテントに入り昼食兼夕食のレトルトカレーとラーメンを食べた。雨が絶え間なく降り続ける。雷鳴も近く遠く聞こえる。ラジオで高校野球を聞きながらスルメをかじり、ウイスキーをチョビチョビとはじめている。テントが古く手入れもしていないため、防水効果が薄れ、テント内がうっすらと濡れている。大雨にならなければいいが、と願いつつ時折外を覗くが、相変わらず濃い霧が周囲を覆い雷鳴も聞こえる。アルペンガイドを取り出し読んでみると、南アルプス北部の山では夏場の夕方には必ずといって良いほど雷雨がある、と書かれている。テントの金属製のポールが気になる。心細くなり、明日にでも山を下りようかなどと考えてしまう。先ほどの親子3人組のことも絶えず気になる。ラジオで天気予報が始まった。日本付近は前線が近づき、大気の状態が不安定で雪が発生しやすい、と報じている。これはまずい。山岳地帯の雷はあらゆる気象状態の中でも一番危険なものだ。

  4時30分頃それまでの雨音が聞こえなくなったので、テントから出てみた。鳥居越しに甲斐駒を見るとはっきりと姿を現していた。ここから見ると本当に岩ばかりの山で、どこに登山道があるのだろうか。周囲の展望は北東方面には八ヶ岳連峰が見える。そして南東方面には北岳がすぐ間近に確認できる。八ヶ岳と北岳の間には町並みが見える。ここは赤石山脈の北部に位置するところであり、奥深いところではない。ここから南に3000m級の山々が連なり、これらが南アルプスと呼ばれている。空は厚い雲に被われているが雲間からはわずかに青空が覗く。それにしてもこの山の天気は登山者の心を左右する。特にソロ登山だと天気次第でどんどん歩こうと明るい気分になったり、気分がめいってもう帰ろうとかなるのである。甲斐駒は山頂付近に山小屋やテント場が無く、当日早出して午前中くらいに山頂に登り、下山するというスタイルが多いようだ。ここは3000m近い稜線上で入道雲も目線の少し上に見られ、上空のジェット音も身近に聞こえる。5時50分雨は止んでいるが相変わらずガスが凄い。野球は仙台育英と米子商業の試合。そろそろ酔いも回ってきた。明日を期待してもう寝よう。まだ明るい中シュラフに入り込んだが、この日はすぐ眠りについたようだ。

 まだ真っ暗い中、目が覚めた。ヘッドランプの明かりで時計を見ると夜中の1時だった。再び寝ようとするが、目がさえて眠ることはできず明け方を迎えた。5時4分少し寒い。テントを開けて外を見た。八ヶ岳方面からの日の出。素晴らしい。この太陽も見る見るうちに八ヶ岳から離れ昇って行く。行動開始だ。今日の行程は長いからと餅2ケ入りのラーメンを作る。5時55分出発。すぐ前にはっきりと甲斐駒が見える。また左手には、鳳凰三山の一つである地蔵岳のオベリスクのすぐ後ろに、富士山がくっきりと見える。8合目を過ぎると急峻な岩場となった。クサリも何カ所か有るが、ほとんどが自分の力で手ががりを探し、足場を確保して、身をたぐり寄せぐんぐん高度を稼ぐ。この辺はもう登山ではなくアルピニストの世界という感がする。左手に垂直に近い甲斐駒の岩場が見える。この岩場を見ながら登山道も最後の稜線歩きとなった。前方数m先で、黒にところどころ白い羽が混ざる比較的大きい鳥に出会ったが、この鳥はハイマツの松ぼっくりをくわえてすぐ飛び立った。後に図鑑で調べてみると、この鳥は高山に住むホシガラスという鳥で、ハイマツの実を食べると書かれている。そういえばここまでに青い松ぼっくりの芯だけがあちこちに落ちているのが見かけられた。

 6時52分甲斐駒山頂着。私が本日の山頂1番乗りだ。ここにも沢山の石鉾や石碑。どうやって上げたのだろう。それにしても凄い360度の大展望だ。コンパスで方位を確認してみる。北から八ヶ岳連峰、北東方面に秩父連山、東に鳳凰三山、その後ろに富士山、南東方面に北岳、南に仙丈岳、西に中央アルプスや木曽御嶽山、それから北アルプス、これらの山々が雲海の上に突き出ている。仙丈岳方面下側を見ると1本の登山道に沢山の人達が見える。北沢峠から甲斐駒を目指す人達だ。
黒戸尾根では3組の人に出会っただけだが、こちらの登山道はすごい人の列だ。30分近く山頂で過ごし、北沢峠に向け下山を始めた。駒津峰という展望の良い小ピークには、これから甲斐駒を目指す沢山の人達が休んでいた。駒津峰を過ぎると間もなくツガの、木の匂いが漂う樹林帯となった。またこの先の仙水峠には甲斐駒ヶ岳に登れなくても、間近から眺めようという人達がいた。仙水峠から振り返って見ると、先ほど登った甲斐駒ヶ岳が、眼前におおいかぶさるように大きく見える。すぐ近くに見えるがそこまでには樹林帯の急登が続く。周りには写真で見た南アルプスの山岳風景その物が、眼前に展開している。これまた至福のひととき。それにしてもこの甲斐駒登山道の黒戸尾根側と北沢峠側の際立った違いは何だろう。黒戸尾根の長くて変化に富み、沢山の鎖場と梯子、そして山頂近くの急峻な岩場、これに対し、北沢峠側には鎖や梯子は1ケ所もない。また黒戸尾根では、歩き始めから山頂まであれほど沢山あった石碑や石祠が、北沢峠側では1つも見あたらなかった。

 仙水小屋で水3.5gを補給し、11時30分に北沢峠に着いた。峠には町営バスが入っている。この時間には山に登る人ではなく、これからバスで帰路に就く人がボツボツと集まってきている。バス停前から通じる仙丈岳登山口には、仙丈岳にあるキャンプ場閉鎖を知らせる張り紙、今年から野営禁止となったようだ。困った。3000mを越える稜線上で野営する場所があるか。家を出て3日日。山行を終え帰り支度をしている周りの人達は誰もが皆疲労と充実感の入り交じった顔つきをしている。とりあえず長衛小屋から家へ電話してみた。子供が出て、お父さんいつ帰ってくるの、と言う。この言葉を聞いて軟弱にも里心が膨らんできた。小屋でそばを食べて子供へのおみやげを買い、バス停で座り込んだ。